教育における「目的」と「目標」の違い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三笠山にのぼる第一歩、富士山にのぼる第一歩。同じ一歩でも覚悟がちがう

どこまで行くつもりか、どこまで登るつもりか、目標がその日その日を支配する

 (後藤静香の詩より)

  

ひとは「目標」が明白であればあるほど、前むきに作業することができます。それは経営でも、教育でも同じです。そしてリーダーや親が取り組む一番重要なことは、ビジョンを語る事ではないでしょうか?

  

「目標」とはビジョン。ビジョンとは、未来の景色。一朝一夕では見えないけれど、「ビジョン」があれば、単調な仕事や、つらい仕事にも何だか勝てそうな気もします。理念なき経営は、ビジネスという荒波の中で、地図も持たずに海にでるようなものです。では、航海には何が必要でしょう?入念な準備に、優秀なクルー、食べ物も必要だし、そもそも羅針盤や、マップ、航海の目的も大切です。

しかしあえて大事なものを上げれば、航海にでるための「動機」です。つまり長旅の先に待ち受ける素敵な未来や金銭的な成功を語ることで、航海中の不満を封じ込めることができます。また、これを教育にプロットすれば、「大人って楽しいな~♪」と思わせることに他なりません。

  

■まちづくりにおける「目的」と「目標」

 まちづくりのイベントでは、動員数をイベントの成功の尺度として用いられます。しかし、それは「目標」であって「目的」ではありません。本来の目的は、「イベントによって町の魅力を再発見してもらい、イベントがなくても人が溢れる商店街」なんてものなるはずです。

 

もしイベントの成功の可否をきめるなら、動員数だけでなく、事前と事後の客の入数の違いや、普通の日に商店街に足を運んでもらうための「仕掛け」の有無が大事なファクターになります。 

 

■もっと難しい教育における「目的」と「目標」 

「教育」において、目的の共有化は非常にデリケートな問題になります。その理由は、商店街であれば、客数や利益ではかれる定規が、「学力」なのか、「健康」なのか、はたまた「道徳」なのかと別れるからです。

 

子ども達にもとめる理想像って難しいんですよね、中学生くらいになってほしい人間像や、大学生では違っていて当然ですし、ザックリいえば、40や、50になって道を踏み外す大人もいるんだから、立派な大人になってもらうというのを究極の理想としてもいいのかもしれません。ただし何をもって「立派」とするかは、別の議論が必要な気がします(>_<) 

 

目的が違えば、目標も違うもの。これが点数で測れる受験勉強であれば答えは簡単です 

しかし、受験や有名大学を卒業するといったものも絶対のファクターでないのが、さらに話をややこしくさせています。

  

■家訓二ストが考える教育の目的 

幡谷の考える理想の教育の成果(目的)とは、「ありがとう」という人間になること、そして「ありがとう」と言われる人間になろうと努力することです。 

そしてその教育方法は、手本となる大人が背中を見せるという1点です。マンモスをおっかけてた時代から、現代に至るまで、子どもは、街路樹の木のように植えて水をやることで、すくすく育ちます。もし、成長に違いがあるとしたら、環境の違いだけで、子ども達自身は、なにも変わらないはずです

  

自然とは、「自ずとなる」という意です。 

作家の養老孟司さんは、「子どもは自然である」との説をとなえており、幡谷もこれに賛同します。

 

子どもがどんな子に育っていくのか、親は見守るしかすべがない。できるのは、3食めしをくわせて、屋根つきの家に住まわせてやること。そして良縁にめぐりあうよう最低限の「躾」を身に着けてもらうこと。それぐらいしか思いつきません。 

 

■子育ては「盆栽」である 

子どもを自然と考えるとき、子育ては「盆栽」とたとえると分かりやすくなります

樹木は、苗をうえ時々手入れをして育てます。それ以外は樹木のもつ自分の力で成長していきます。子育ても、子どもの持つ生命力を、ちょっとした手入れで、成長を託すものに他なりません。

 

ネットで盆栽を育てるうえでの真髄が紹介されていました。 

いずれの教訓のポイントは、「手入れ」という発想。つまり自然のチカラを生かしつつ、ちょっとだけお手伝いするという手法です。 

 

1.余計な手を加えずとも樹形は木みずからが決するので,最低限の剪定で無駄を省いたら,後は時に任せる。ただし,どれほど人間の痕跡を消そうとしても,作り手の影は避けられず木に寄り添う

 

2.水と肥料をぎりぎりまで切りつめることで樹形を引き締め,同時に木が持つ本来の生命力を引き出す。 時間のかかるやり方だが,間延びした虚弱な木を作るのではなく,小さな木から大きな迫力を引き出すためには,これしかない。 

 

3.自然はいつも人間の想像を超えてゆくから, 人工の枠をはめようとすると,木を愛で慈しむはずの盆栽が,超えようとするものと抑えようとするものの,単なるせめぎ合いへ堕落する。 

 

4.配植に心くだくと風景が箱庭的にまとまり,展開を失う。無造作に植え込んでから,はみだし,落ちこぼれを捨ててなりゆきにまかせることで,無辺の広がりが生まれる。

 

  

幡谷が考える教育は、目的は「ありがとういう、ありがとうと言われる人間になる」です。

そんな目標に達する目標(行動指針)は、「盆栽」の如く、自然である子どもたちに適度な手入れをし、大人たちは我慢することです。

 

大人ができることは、子どもを塾にいれることだけでなく、明るい太陽のように、周囲の大人や、お父さんお母さんの輝く姿を子どもたちにみせること。「家訓づくりプログラム」は、こうした幡谷なりの教育論をお手伝いするためにつくられました。また徳パックや偉人伝は、おんなじ背景をもちながら、対象によって、手法をかえた兄弟プログラムともいえます

  

『子育てとかけまして、盆栽とときます。その心は?』
その心は『松と菊』。『待つ』と『聞く』
子育てだけじゃない、色んな人と楽しく豊に生きていこうとおもったら、それだけでいいのかもしれません^^

 

リーダーや親の役割はたくさんあるけれど、その人自身が、光り輝いていたらそれだけでいい

 

家訓二ストは、子育てのコツは、輝く母ちゃんと、夫婦円満と、著作のなかで紹介しています。ひとは「目標」が明白であればあるほど、前むきに作業することができます。それは経営でも、教育でも同じです。そしてリーダーや親が取り組む一番重要なことは、ビジョンを語る事ではないでしょうか?

親がビジョンを語る?ってちょっと気持ち悪い感じです。そんな親はぼくもちょっと嫌だ(>_<) 幡谷が考える「ビジョンを語る親」とは、生き方そのもののさします。語るとは「しゃべる」ことだけでなく、人生を謳歌するあなたの背中です!

 

盆栽にあたる太陽のように、大人の背中で、こどもたちを導きください。

 

 

   

 

 

 

 

 

参照: 「目的」と「目標」の違い

(参照:ザチェンジ)

https://thechange.jp/mokumoku7-6829.html

 

 目的と目標の違い1:目標は目的のためにある。


目標とは、目的を達成するためのステップです。あくまでも、「目的」を達成するために目指すべき行動やその道筋を示したものが「目標」となります。目的が無いのに目標だけがあることはありえません。

 

目的と目標の違い2:目標は具体的に、目的は抽象的に。


目的は世界平和幸せになるといった概念的なものであっても、目標はその目的を叶えるための道しるべです。目標は具体的にクリアできる手段や方法が分るものがおすすめです。 目的については、象徴的で共感をえられるものを。目標に関しては、つべこべ言わさないはっきりしたものが必要です。    

 

目的と目標の違い3:目標は過程、目的は行き先。


「目標」とは「目的」に至ための道筋であり、過程となります。階段のイメージしてみてください。ひとつの「目標」を達成した先には次の段(目標)がまっています。しかし階段の先には、ピカピカの未来がまっているのです。 目的にたどり着くための「課題」が目標です。会社における売上は、理念(目的)を実現させるための「目標」の1つです。 

 

目的と目標の違い4:目標は諦めても、目的は諦めない。

 

ひとつの目標を達成しても目的に近づかない場合もありえます。大きな目的を叶える為には、進む方向を見極めて、目標を常に更新する事も必要となります。大きな目標に向かい挫折したとしても、目的を見失わない事が大事です。目的を持っていれば失敗さえも、糧になります。反対に、目標を絶対とすることはやめましょう。

 

 目的と目標の違い5:目的は目標の先にある。


「目標」は「目的」に至るための過程。着実に目標をクリアしなければ目的には近づく事はできません。