植民地化を阻止した真の英雄・徳川慶喜公の半生

国史会議のHPを更新しました


歴史とは、古きを訪ねて新しきをしる。現代にいきる我々に様々な教訓をおしえてくれるものです。しかし学校で教えてくれる「日本史」は、年号や暗記クイズばかりで、「ひと」がいません


今回のブログでは教科書ではほんの2~3行しか描かれない最後の将軍となった徳川慶喜公の半生を紹介します


歴史は勝者によって作られる。
敗者の総大将、慶喜公の功績は、誰に、どう書き換えられたのか?教科書では教えてくれない国史(日本の歴史)のスタートです^^

  

日本は、2000年以上の歴史を誇る世界一古い国です。しかし悠久の歴史のなかでは、独立を脅かされた危機が何度もありました。

 

まずは、13世紀の元寇。当時、世界一の大国であった元の襲来を、鎌倉時代の武士たちは見事阻止しました。

そして大東亜戦争終結時、国体の護持が脅かされたものの、先人の奮闘もあり、初代神武天皇から続く、日本の歴史は、絶えることなく今に続いています。

 

実は、もう1つ、日本の歴史が途絶える危機があったことをご存知でしょうか?

それが、今回、ブログで紹介させていただく、明治維新の前夜の物語です。

 

曲突徙薪(きょくとつししん)という四字熟語があります。

ざっくり説明すると、火事を鎮火したヒーローは記憶されるが、真にほめたたえられる正義は、火事をおこさない人であるべきだという意味です。

 

火事をおこさなかったヒーロー、それが今回のブログで紹介する徳川慶喜公です。

慶喜公の功績は、戊辰戦争に見事に負け、結果、西欧列強の植民地化をしりぞけた功績です。

 

 

ここで、今回のブログの主人公である慶喜について紹介します。

 

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生し、以後、一橋家に養子にだされたあと、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)に任じられる。江戸幕府最後の将軍であり、また水戸徳川家にとっても、最初にして最後の将軍となりました。

 

ちなみに、水戸徳川家は、家康十男・徳川頼房を初代として始まります。一般に御三家といわれ、尾張、紀州と共に、将軍家を補佐する役目として設置されました。一説には、水戸徳川家は、神君家康より密命が家訓として託されていたとも言われています。その家訓とは

 

「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 (常磐神社HPより   http://www.komonsan.jp/kura/post_57.html

 

混迷をふかめた幕末にあって。将軍家の最後の切り札として登場した慶喜。

しかし、家訓のとおり、朝廷に行政権を委譲する大政奉還を成功させ、また戊辰戦争においても、朝廷に弓をひくことなく、指揮権を放棄し、官軍(朝廷)の勝利を決定づけています。

 

一般には、弱腰と批判される慶喜でしたが、その秀でた能力は、新政府の桂小五郎をして、「神君家康の再来っ!」っと恐れられていました。

 

家康をのぞき、歴代将軍の中で、これだけドラマティックに、そして確固たる業績を残した政治家はいないのではないでしょうか?

政治の面では、身分に関係なく優秀な人材を登用しています。そのなかのひとりが勝海舟であり、また資本主義の父と言われた渋沢栄一も、一橋家に仕えていました。

 

政権を朝廷に返上した大政奉還の実現の際には、弁舌はげしく、多くの諸公、公家たちを相手に孤軍奮闘した記録が残されています。殖産興業の面でも、慶喜がつくらせた横須賀にのこる舟を建造するドック等は、明治から大正、昭和と、多くの舟の建造をし日本の豊かさを支えました。また、意外なところでは、石川島播磨重工業も、慶喜公由来の会社です。

 

これだけ優秀な慶喜が、戦わずして負けたことに、あなたは疑問を感じませんか? そもそも、慶喜の世界史以上稀な、見事な敗戦がなくして、明治維新も、日本の繁栄もなかったことをあなたは御存知でしょうか? 規格外の怪物 慶喜を語るため、今回のブログでは、日本の枠をこえ世界情勢から語らなくていけません^^

 

当時の世界情勢は、西欧列強と言われた白人様による植民地政策の最盛期の時代です。世界の国々の独立が奪われ、完全な形で独立を保ったのは、195余国のなかで、タイと日本だけという状況でした

 

白人による植民地政策は、狡猾で、また心理をついたものです。

まず宣教師をおくりキリスト教を布教させます。この点では、秀吉、家康による布教禁止のおかげで先兵のおくりこまれる危機を脱していたのは幸運でした。次に行う戦術は、内戦です。つまり国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです。植民地化の際、目立った戦もないままなし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労をまっていたからです。

 

白人様は、とにかくずるい(*_*)

 

しかし、日本の場合、イギリス、フランス、ロシアにアメリカ。各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたのに、慶喜公の見事な退却と、徹底した新政府側への恭順の姿勢のすえ、新政府側、徳川側消耗することなく政権が引き渡されました。世界中の180国が植民地にされた時代に、日本だけは懸命なかじ取りで、その危機を脱しています


戦いは、切った張ったの世界である一方、なにをもって勝利とするか?は大変難しいジャッジが必要です。1つ言えるのは、戦いのなかで、「大局観」をもてる人材が真の英雄だということです。


大局観をもてない歴史家たちは、慶喜の選択を、弱腰とも批判します。また徳川側に十分な戦力が整っていなかった?というのも間違いで、鳥羽伏見の戦いの時点では、西欧式の軍隊も導入し、最新式の大砲をそなえた軍艦まで所有し、新政府と徳川側の戦力差はなかったものと言われています。

しかし、慶喜は戦わなかった。そのことで、生涯、弱腰といわれ、そしていまなお、慶喜を批判する人。あるいは、無能の将軍との辱めをうけています。しかし、慶喜は悠久の日本の歴史のなかで、負けて勝ったのです。つまり内戦に突入しなかったことで、西欧列強からの干渉を抑えこみました。

 

戦争という火事場で散るばかりでなく、名をすて、己を殺し、慶喜は270年の幕府の時代をひとり幕をおろしました。

徳川家は負け日本が勝った。それ以上の勝利があるのでしょうか

火を消すばかりが英雄でなく、火事を起こさない英雄、それが慶喜公の賢明さです。

 

戦の中で、どう負けるか?が一番難しい判断です。

秀吉は負け戦のしんがり(退却時の最後の一団)をつとめ、信長の信頼を勝ち取り、百姓の身分から、天下取りをする足がかりを築きました。同じように、慶喜は激動の時代のしんがりをつとめ、今に続く日本の繁栄をもたらしました。

しかし、今から約70年前、日本は大東亜戦争を戦いアメリカを中心にした連合国側に、粉々に打ち負かされています・・・

この時、秀吉、慶喜のように、敗け戦を上手にたたむ「将」がいたのなら、歴史は変わっています。事実、多くの悲劇をもたらした戦争の中で、戦傷者の9割は、終戦をむかえる1年の間の悲劇です。つまり1年、早く終戦をむかえていれば、尊い人命の9割は助かったのです。戦局をみれば、サイパン島の陥落後、本土への爆撃が可能になった時点で、日本の勝利はなくなっていました。

 

大東亜戦争の悲劇は、サンパン陥落後の日本に、負け戦を演じる「慶喜」がいなかったことです。そして、幕末の日本には「慶喜が」いました。

 

そんな慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓と、藩校・弘道館。そして水戸の風土であると家訓ニストは断言します。そして、偽勅をあやつる新政府軍より、皇室への尊崇の念も高かったことは、歴史が証明しています。

 

勝者によって歴史がつくられる。しかしそろそろ、慶喜公、斉昭公の名誉回復と、その偉大な功績を議論すべき時がきているのではないでしょうか?

 

歴史は勝者によって作られるもの。 

通説とされる教科書に載っている「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

最後に慶喜と天皇家にまつわるエピソードを1つ紹介させていただきます。

 

維新後、普通の感覚でいうと旧政権のトップであった慶喜が蟄居とはいえ存命していたのは、今の国際感覚から判断しても英断です。21世紀になってもアメリカ様は、フセインを殺し、ビルラディンも法廷にかけることなく銃殺しています。

 

そしてその後、慶喜は、77歳まで生き、歴代将軍の中で一番の長寿をまっとうしています。慶喜の敵方であった志士の面々と比べると西南戦争で散った西郷隆盛、暗殺にあった大久保利通、伊藤博文も、テロリストによって殺害されました。慶喜は、偉大な敗者となり、表舞台から去りながらも、自分を捨て、なおかつ最後は、勝ったのかもしれません。

 

明治天皇と慶喜は、明治末期に会食の機会がもたれ、かつての居城、江戸城跡にたつ皇居にて面会された記録がのこっています。また、貴族として最も、位の高い公爵を授けていることから、明治天皇より特別な計らいがあったことは、言うまでもありません。そして、驚くべきことに、慶喜の息子は、大正天皇を支える侍従長に就任し、一番近い側近として、天皇家を支えていったのでした・・・

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

そして、「正義」の人、慶喜は正義よりも、尊い「大義」に生きた人生だったのかもしれません。30歳で就任した将軍職をわずか1年間で瓦解させ270年の徳川政権を店じまい。そして残りの44年間を晴耕雨読の日々で過ごした人生は、見事としか言いようがありません! 

  

温故知新。古きを訪ねて新しきをしる。あなたは、このブログで何を感じたでしょうか?そして、あなたは誰に、何を残し、何を渡しますか? 歴史の裏に人があり。年号や暗記クイズに陥った現代の日本史には人がいません。

幡谷が考える国史とは、人であり、人生でありであり、今もいかせる教訓であるべきです。

 

名をすて、国をまもった慶喜公の見事な負けっぷりを、水戸人として誇りに感じます^^

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コメント: 1
  • #1

    谷井千鶴子 (日曜日, 19 9月 2021 23:54)

    徳川慶喜の行動をきちんと伝え、歴史的価値をもっと日本国民は知るべきだと思います。