アイデンティティを日本語言うと

「国史」の効果の1つは、子ども達へのアイデンティティの醸成です。では、このアイデンィティを日本語にたとえると何でしょうか?

 

一番近いニュアンスだと、価値観・・・という事になるでしょうか?

 

辞書によると、自己同一性、自我同一性など難しいことが書いてありますが、かえってよくわかりません。

 

家訓ニストなりに表現すると、自分をそぎおとして最後に残るもの、それがアイデンティティの正体です。

  

 個人という言葉がなかった明治までの日本

1884年(明治17年)、今までなかった「個人」という言葉が誕生します。それまで日本をはじめ中国などの東洋社会では、個人を現す単語はなく、●●さんちの△△兵衛と表現していたようです。つまり、「個」でなく、「家」あるいは集団のなかで、価値観を育んでいたことがわかります。いまだに日本語で、アイデンティティという言葉の対訳がないように、英語にも、「兄」や「弟」という表現はなく、ひとくくりに「ブラザー」とされてしまいます。また。「先輩」「後輩」という概念もないようです。

 

個人を大事にしてきた西欧と、「家」を大事にしてきた東洋社会の違いがわかる事実です。 家や、職場、部活動といった集団では、集団内のルールや、和を守る行動が、最優先になります。日本において、相手を気遣う文化、そして躾を大事にしてきたことは、文化的な背景があるのです

 

西欧の価値観と比較すると、日本人がアイデンティティが語れない理由がはっきりします。反対に、欧米人の感覚では、気遣いや、先輩や後輩の人間関係は、まどろっこしいものなのでしょう


改めて、日本人のアイデンティティとは何とは?   

 家訓づくりを弘める活動をしていくうちに、家訓こそが、アイデンティティであったことに気づきました。いまの日本では、核家族化がすすみ、家訓もない家が増えたことで、おじいちゃんおばあちゃんから伝わるはずだった知恵も失われ、アイデンティティの迷子が続出しています

  

自分を、そぎ落としていくと、父ちゃん母ちゃんの息子であり、長男であり、阪神ファンであり、そのぐらいしか自分を表現できるものがありません。家訓ニストも、所詮、戦後教育の落とし子です。国も知らず、神話も分からず、自分を語る言葉もない薄っぺらい人間であることに猛省しています。


国語、算数、理科、社会。どれも大事なことですが、これに国史、あるいは徳育を入れてほしかったと今更ながらに思います 。タイムマシンがない以上、昔の自分に神話の絵本は届けられません、でも、国史への取組をつうじ、これから育つ子ども達に日本の文化、伝統、そして誇らしい歴史を伝えることはできます。


今後も、家訓ニストは、家訓づくりのセミナーはもちろん、ようやく動き出した徳育や土曜学習へのアプローチをお手伝いしていきます。


全ては子ども達の未来と、タイガースの勝利のために、家訓ニストは隠徳をつむいでいきます!